「小さないのち」会報--会報 No.58
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2005年10月05日
会報 No.58
こころの扉(会報41号)              平成15年 月

こころの扉(会報58号)               

2005年9月

発行 小さないのち

17回公開講座「子どもの死を語る」

第二部

鼎談のまとめ(敬称略):松城里香

             

     鼎談(ていだん)とは3名で行う対談で、そこへ坂下が司会として加わりました。

 

坂下3人の共通項は、分かちあいを続けて来られた(自助活動の運営に関わって来ている)ということだと思うが、それぞれが思う分かちあいの意義を話してほしい。

田上:はじめに東京でSIDS家族の会ができた時に自分の体験を話し、それによって非常に自分の気持ちが整理出来たということがある。同様に書くとか読むとか話すということは自分にとって大切な事になった。電話口で顔も知らない人と話が出来るというのは、非常に私にとって支えだった。その後、三男が生まれた時、電話口で、子どもを亡くしたばかりの人に泣き声を聞かせたら悪いという気持ちが出て来て、段々電話を取るのが負担になった。電話がかかると長時間になり、食事の支度が出来なくなるというようなことが度重なり、上の子も電話のベルにドキッとするようになってきた。また年月が経つにつれ自分の気持ちにも距離感がでて、一緒に泣く事が難しくなってきたので、若いメンバーに電話窓口になってもらい、少しずつ引き継いでいる。窓口になる人は負担が大きいのでこちらも心苦しいのだが、受けることで自分自身も立ち直るきっかけになるいい時期もあると思う。

筒井:四国には分かちあいの活動はあまりない。面積の広さと交通手段の悪さでなかなか集まれないのもあるが、遺族の声が表に出てきていないように思う。たとえば周産期死亡も多いのに、SIDS家族の会への問い合わせが四国全体で少ない。

これは小さないのちにしても同じ。悲しんでいる声が、私たちのところに届かないというのは、悩みの種である。高知の土地柄からすると以外かもしれないが、しがらみがあり悲しみをそのまま出せない。田舎だからか自分のことをしゃべる嫁というのは歓迎されない、というのがあるのかもしれない。

私の場合は外へ行くときは笑顔のお面をつけて行き、帰って来たらそのお面をはずしていた。帰宅し、鏡をみて笑顔が張り付いたままの自分の顔を見てぞっとしたことがある。亡くした当時、この悲しみは人には言えない、言いたくないというのが凄くあった。そんななか、SIDS家族の会で色々話す事が出来て、やっと救われた気分になった。

本はそんな頃に書き始めた。理由はきょうだいに娘のことを知って欲しかったから。自分の気持ちを公表することは考えていなかったので、ありのまま書いた。書く事で復活した部分はあるのだが、悲しみは一人では絶対背負いきれなかった。

 

坂下:東京までフラフラなお母さんが新幹線に乗って行く。松城さんがとった行動はすごい思い切りに見えるけれど、這うような思いで分かちあいを求めて行く訳ですよね。

松城:次の分かちあいに行くため、それにつなぐ為に残りの一ヶ月をただ生きていたという感じ。きっかけは、たまたま連れて行かれたのだが、東京では匿名性があってしゃべりやすかった。そこですごく共感してもらえ、魂が近付きあえたという驚きがあった。子どもと二人の世界に閉じこもって外へ出られなかったので、分かちあいの場で、こういう悲しみがあったのだ。こういう親子もあったのだという発見があり、ただそれにすがるような感じで、次回までかろうじて[いのち]を繋いでいたという感じ。

 

坂下:何故自助活動を続けているのか?

松城:ひとつは、そこで、自分が救われたから。もうひとつは、子どもを亡くしたことから12年たっても卒業していないから。

聞き続けていくことは、重いこともあり、辛い事もあるが、行くと何かをもらって帰って来る。死別の先輩が日の浅い方の話を聞いてあげるだけではなく、涙の中で夢中に語られたことが、年月を経た方のこころをパッと打つ、それに思わず返した言葉でまた繋がって行くというそれが、分かちあって、支えあうということではないか。その輪を少しでも広げたいという思いで続けている。

 

坂下:日の浅い人に色々なものをもらうという事は、文化的な取り組みだと思う。

私たちは、亡くなった子の親であり続けるということをやめていない。だからボランティアという言い方はしない。ボランティアではなく、あくまでもセルフヘルプ。支え支えられという関係。卒業してしまったらボランティアになる。

松城:亡くなった人はその瞬間にこの世界から消えてしまう。周りの方々の記憶からも、その痕跡が無くなっていく。自分の記憶からも薄れていく部分もある。忘れていく自分が怖いというのと、仕方がないという気持ちのなかで揺れ動いているのだが、それだからこそ、その子の母親として何かをし続けていたい。その子が亡くなったからこそ、こういう出会いがあり、こういう活動がある。その中で魂の触れ合いがあり、刺激をしあい、そこから文化的なことが生まれてくるのではないか。少しでもこの会を続けていこう、前に進んでいこうという気持ちがある。分かちあいの中で出会いがあり、触れ合いがあり、そういうことから離れられないから続けていく。

田上:分かちあいは、天国の子どもたちが設定してくれたPTAなんじゃないか。天国の子どもたちがそういう風に私たちを会わしてくれたんじゃないかと思う時がある。

 

坂下:装わなければ生きていけない反面、自分の中では親であり続けるために理想の母親でありたい。ということは?

筒井:そういう気持ちがあるから、千草をどんどん自分の中に取り込んでいったと思う。いろんな場面で「千草ちゃんどうする」とこころの中で相談しながら過してきた。何となく答えが聞こえたような気がして、そうする。自問自答。自分で答えを出しているのだが、「千草」を取り込んでいる。ある時からあの子がこころの中に棲みつきだした。いつもこころの中にいる。この子と一緒に生きていくんだな。私が死ぬまでこの子は死なない。私が元気でいる間はこの子は大丈夫という思いがある。

田上:私にいっぱい宿題をくれたのかなと思う。「健」自体はそういう意味では色々相談していく存在ではない。存在そのもの、[いのち]そのもの、であるので、確固とした[いのち]に聞くという感じ。自問自答かもしれないが、私が亡くなった時に、天国で会った時に、ようやったと言ってくれるかなという感じ。

私の場合は仏壇には全然手を合わせない。仏壇の中にはこの子はいない。この辺にいる(目の前)という感じがするので。何か考えたい時は仏壇に手を合わせるのではなく、どうしようかなと、この辺(目の前)を見て考える。

筒井:亡くなった当初は、千草が部屋の隅の方にいそうな感じがしていた。お風呂で髪を洗っていたら何か後ろからつついているような感じ。いつもその辺にいそうな感じだったのが、いつの間にか私の心の中に棲んでくれているような。今日もたぶん、ここにいる。頑張れよといってくれている。

 

坂下:遺族ほどものを考えている人はいないと思う。

私の出会うお母さんたちはよく、お骨を身につけている。ペンダントにしていたり、毎回背負って来てくれるひともいる。そうして常に肌につけているという人も多い。

筒井:私は妊娠中だったので、焼き場へ行くのを親族から止められて、娘のお骨を見ていない。納骨では手前に骨壷からお骨を出して、さらしの袋(自分で作った)に入れるのだが、私は怖くて出来なかった。主人と小1の長男がやってくれた。その時は真正面に見るのが怖かった。納骨(さらしの袋のまま土中に埋める流儀)には立ち会ったが・・・。死に顔、冷たくなったのを見て感じて触れてそれでも辛いので、骨をみたらどうなるかと思って…。だけど今となっては歯の一本くらい抜いても怒らなかっただろうなあの子は。という風に思う。だから(お骨等を)持っているお母さんを見たらとってもうらやましい。

 

坂下:亡くなった時にはその時に判断しないといけないことが沢山あるので、二、三日考えますという風には行かない。大事なことなのにそれが出来ない。解剖は、大抵は断るのだが、何年も経ってから何故なくなったのか原因がわからず、それだったらあの時解剖してあげるのだったと思ってもその時決断しないとだめだから…。

また、一部始終全部見たという人もいる。松城さんは、斎場も行って、お骨も拾って、全部見るという感じだったのか。

松城:というよりも、片時も離れられなかった。心配で一人で焼き場なんて行かせられなかった。ずっとついていって、お骨も拾って。まだお墓には入れずに家にあるし、遺髪と爪は持ち歩いている。

私の場合「大介」は頭の後ろ辺りにいるという感じ。田上さんと同じように語りかけて相談するし、亡くした子がいるからこそ前向きに、悪い事をせずに生きていくと言うのはある。ここにいるのだけれども、天国にもいると思っていて、私が死んだ時には笑顔で会いたい。というのがある。だから悪い事や曲がった事をすると心の底の方から、「ちょっと、ちょっと」というのがある。

亡くなった方の遺志を継ぐ。という言葉があるが、小さい子どもには継いで行く遺志がないので、その代わりに「曲がったことはしないで懸命に生きていくから、天国で待っていてね」という気持ちがある。

 

坂下:私は、亡くなったとき「この子は娘じゃない」と思ってしまった。亡くなった事実が受け入れ難かった。すごい距離を感じてしまった。触れられないくらい受け入れ難かった。感じ方はそれぞれだ。皆、愛情の深さはあっても、心の動きはそれぞれ違う。

子どもをその後に産んだ人っていうのはすごいことだと思う。大変だろう。すごく幸せな事だとも思う。その子が亡くなるかもしれないという逃れられない緊張感があったのでは?

田上:37歳で喪って、39歳で三男を授かった。それはありがたいことだと思っている。三男の妊娠が分かってから、いつ死ぬかというのがあって、だれか保障して欲しい、この子は生きていますよねというと、当たり前じゃないと言われる。でも私にしたら当たり前じゃない。前に喪っているんだから。

坂下さんに聞かれたとき、「生まれ変わりはあると思うよ」と答えた。三男は「周」という字。生まれ変わりなんてあるわけないというのは、頭ではわかっているが、気持ちとしてはもう一度あの子が戻って来て欲しいと言うのがある。だから、「健」の命が世界を2周位回って戻って来てくれてうれしいということで「周」という名前をつけた。[いのち]ってポロッとなくなってしまうのかもしれないなというところを超えてきた。生まれる時に分娩台の上で「私は産みたくないんです」と騒いで、「赤ちゃんが可哀想だから頑張りなさい」といわれたが、「産んだらまた死んじゃうから、生みたくない。このままでいる」と分娩台の上で相当わめいたが、その時はものすごく怒られた。生まれるとまた死ぬかもしれない。このままお腹においておくと死なないという気持ちがあった。

そういう経験をずっとしながら、すぐ死ぬかもしれないから、今生きていることは素晴らしい事なんだなと。今生きている[いのち]はありがたいなと思う。

 

坂下:どう支えるかということについて。セルフヘルプグループは専門家ではない。今を支えるということが、大切な時があると思う。「あると思うよ」と田上さんが言ってくれたことが[いのち]を支えてくれた。何が正しいかということよりも、その時の「いま」を支えることでその後本人は自分の足で立っていく事ができるのだから、そこを支える意味があると思って話を聞く。私の場合も、実際生まれ変わった子どもを得る事が出来たかというと出来なかったのだけど、今も生きている。田上さんにはその時の生を支えてもらった。

 筒井さんのお話の中で、もう二度と笑うことは無いと思った時期があった。だけど笑えるようになった。それは亡くなった子の存在が小さくなったというわけではなく…

筒井笑えるようになったからといって、千草の存在が小さくなるなんて絶対ない。時間が経つほど、千草の存在が自分の中で逆にどんどん大きくなった。とても子どもを亡くした人には見えないと言われても、落ち込むことはない。「ああそうですか」という感じで、子どもと一緒にいるという思いがあったからじゃないかと思う。

 

 

坂下:身動き出来ないほど辛いところを通り抜けた後に、抜けたつらさが襲うということもよくあることだから、「辛さの中にいるその時間も大切にお子さんと過ごされてはどうですか」とよく言う。

松城:そうなんです。その時期はすごく辛いのだが、存命中を除けば、その子との一番濃密な時間を過すことが出来ていた。その子のために100パーセント、身も心も悲しんでいた。ものが食べられなくなっていたりした私はもういないですし。周りの状況もそれを許してはくれなくなる。いつまでも泣いていて許してもらえる状況ではないし、次の子も生まれてきたので、泣いてばかりでは育てられない。悲しみを一時脇に置くことも覚えた。

ただ、年月を重ねて良いほうの変化というか、一緒に味わってくれているかな、と思えるようになったこと。私の舌を通して、こころを通して、食べることだけじゃなく、感動を一緒に味わえている、共有していると思えるようになった。という変化はある。

 

坂下:死別の悲しみを乗り越えると言う言葉があるが、癒されるということはあっても、癒えるというのはないと思うのだが…。

筒井:悲しみを乗り越えるとか、癒えるというのはないと思う。悲しみと共存するとか付き合い方が上手くなるとかそういう形だと思う。ものすごく深い悲しみがあり、以前は何もかも置いて泣いていたのが、今は付き合い方が上手になったかなという感じ。乗り越えるということはありえないと思う。出来る方がいたら方法をご伝授いただきたい。

田上:「健」からの宿題だと思ってやっているが、今「健」が戻ってきてくれたらこの宿題はいらない。悲しみは、受け入れるとか諦めるという感じ。諦めると言うのはものすごく難しい事で、諦められないから色々考えるのだから、「周」が生まれてくる時、諦めるの「諦(あきら)」という名前はどうだと思ったことがある。

今は12年たってずっと生きていて、乗り越えては居ない。これが自分の人生だと受け入れる、納得する。いまだに12年たっても出来ない事はある。お葬式を見ていない(産院にいた)ので、夫が読売新聞に12回の童話を書いて私にお葬式の事を暗に知らせたがっているようだが、いまだに勇気が無くて読めないでいる。12年経ってもそういうのはやはり回復していないのかなと思う。そのあたりは要領よく、切り替えられるようになったのが12年経った私の悲しみとの付き合い方かな。と思う。

 

坂下:弱った患者さんと病院との間に立って、感情を共有できるか?

田上:共有できていると思っている。患者さんに子どもを亡くしたとは言っていないが、大切な人の命が消えていくといった気持ちを以前に持ったという立場で接することができるかなと思う。支えるばかりでなく、私が支えられることはいっぱいある。元気だった人が、手足の筋肉が衰えていき、徐々にいのちの終焉に向かっていくという現場を見たときに、自分のいのちに対するスタンスを毎回確認するような作業になる。単に医療者側じゃなくて、患者としても気持ちを一部わかってさし上げるということで、橋渡しができないかと。病院側の事情もわかるので、家族として戻ってこられた時に少しでもサポートできれば、何か出来ることがあればと思う。

 

坂下:病院が忙しくて時間が無い時に私たちの組織を社会資源として活用して欲しい、私たちと連携をして欲しい。という思いがどの団体にもある。[いのち]という言葉がよく出てきたが、私達は、[いのち]と向き合っているんだなとおもった。

悲しみというのは乗り越えなくてはいけないものなのか? そもそも乗り越えられないのだったら、乗り越えるという努力はしなくてもいい。共生と言う言葉があるが、共に生きていくということ。今では、悲しみとともに自分らしく生きていけばいいのだなという思いがある。見せる姿も宿る気持ちも人それぞれなのだ、と思わせていただき、自信を与えていただく事ができた。