「小さないのち」会報--会報 No.57
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2005年10月05日
会報 No.57








こころの扉(会報41号)              平成15年 月

こころの扉(会報57号)               

2005年7月

発行 小さないのち

17回公開講座「子どもの死を語る」

<第一部>

あの時からの私 ―現在そして未来へー

小さないのち 筒井 朋子さん

 

 娘千草が、急性脳症のため15ヶ月で亡くなったのは、今から10年前の夏でした。関西の皆さんには阪神大震災が起こった年、と言えばわかりやすいかと思います。10年一昔と言いますが、今こうして普通に生活している自分が信じられないというのが正直な話です。

 簡単に千草の経過を説明してみたいと思います。1歳3ヶ月になったばかりの、6月初旬のある晩熱を出しました。症状は38度の熱・鼻水・咳でした。翌日近所の内科小児科で診てもらった所、「軽い風邪ですね」と言われました。ところがその晩40度にまで熱が上がり、次の日の朝小児科専門医に診てもらいました。そこでも「風邪」という診断でした。夕方になっていつもと違う様子に心配になり、その小児科を再度受診しますが、血液検査では何も異常がありませんでした。帰宅後意識が朦朧とし始め、主人の帰りを待って夜間当番の救急病院に着いた頃は、けいれんをおこしていました。小児科の先生の診察の直前大きくひきつけて、その後意識の戻る事はありませんでした。

 けれどその時も「軽い熱性けいれん」という診断でした。それから2~3時間後、経過観察で入院したその救急病院で、千草の心臓は止まってしますのです。幸い当番の夜の救急病院でしたから、スタッフの数も足りており、心臓の鼓動は戻って来ましたが、二度と自発呼吸の戻る事はありませんでした。

 この夜から2ヶ月半後、千草は力尽きるように、天国に旅立ちました。1歳5ヶ月でした。

 元気だった娘が、風邪から急変しただけでもパニックなのに、ほとんど脳死状態と医師に告げられた時、私は自分の置かれた状態を飲み込む事も、理解する事も、受け入れる事も出来ませんでした。ただ泣き暮らし、こうなったのはすべて自分のせいだとわが身を責め続けました。怒りの矛先は主治医にまで及び、どうしてこういう深刻な事態を見逃したのかという思いでいっぱいでした。

 でも怒りの矛先はもっぱら自分に向けられ、自分のせいなのに人のせいに責任を転嫁しているとわが身を呪う気持ちが強かったことを覚えています。

 当時、娘が死んだらもう自分も生きていられない、と思い込んでいました。千草のいない人生を、娘を死なせた自分が歩くなんて、罪深くとても出来ない事だと思いました。その時の葛藤は著書に書いています。(生と死のあいだ 新風舎)

 

 千草が旅立ったのは、不思議な事に千草の死を受け入れる気持ちにはなった頃でした。最初の頃は現実を受け入れがたく、奇跡が起こることを信じる事で、かろうじて自分の精神状態を保っていたように思います。千草の体が次第に弱っていき、「もう頑張らなくてもいいよ」、と声かけが出来るようになった時、本当に消えるように亡くなりました。主治医に対しても、2ヵ月半の入院生活のなか、一生懸命診察に当たる姿にこの医師でよかったという思いに変わっていました。

 

 入院中は亡くなる時が一つの区切りで、この事態を受け入れられるか否かの世界でした。その後の事など具体的に何も考えに及びませんでした。ただ千草が死んだら、どうやって生きていこう、と漠然と思っただけです。ところが実際は、自分にとって本当の修羅場は、娘の死後でした。

 入院中は脳死状態といえ、そばに生身の娘がいました。触れれば温かいし、手も握れます。反応は全くありませんが、子どもの姿を見ながら話も出来ました。それはそれで辛いのですが・・・。

 それがお骨になると姿はありません。お骨を抱いてもカラカラと骨の乾いた音がするだけです。寂しくて寂しくて一日お骨を抱いて過ごした日も一日ではありません。家の中に千草のいた痕跡―タンスの隅に隠したお兄ちゃんの靴下や窓についた指の跡―見つけるたびに号泣していました。

 お骨のことを話題にしましたので、納骨のいきさつもここでお話しましょう。後から思うと、納骨の事が自分の回復のバロメーターになっていたと気がついたのです。

 平成78月に亡くなって、翌年のGWに筒井家の墓に納骨しました。私は納骨に反対でした。自分が死んだ時一緒に納骨して欲しいと主人や両親に頼みました。でも主人はお骨のまま過ごさせるのはかわいそうだ、という考えでした。今なら「納骨したくない」と強く言えると思うのですが、当時私は一言も言えませんでした。

 なぜだと思いますか?それは「自分は子どもを死なせたダメな母親で、そんな事いう資格がない」と勝手に思い込んでいたからです。その時の私は、自分も、わずかばかりの自信も一切失っていました。

 この時納骨した事を今でも大変後悔しています。納得してから納骨すべきだったと思うのです。少なくとも、主人とはもう少し話し合うべきでした。というのも、色々ないきさつがあり、1年後筒井家の墓地から、新しい霊園をもとめて改葬することになるからです。自分の言わなくてはいけないことを言えずにいて、結局千草にしんどい思いをさせてしまった、というのを何より悔やんでいます。

 亡くなってから10年の自分を、納骨に関して気持ちの変化をまとめると

 ・納骨に反対できず、泣く泣く従った自分。

 ・納骨後千草の存在すべてが消えた気がして、おかしくなりそうだった自分。

 ・その状態が変だと思い始めた自分。

 ・事情で改葬する際、ほっとした自分(取り返したようにおもいました)

 ・それでも最初の納骨がいかに辛かったかについて主人に言えない自分。

 ・ようやく最初の納骨の辛さと、それを口に出来なかった事を主人に話せた最近の自分

 このように亡くした当時の私は、自分を否定する事しか出来ませんでした。

 

  10年の時の流れが、自分の中にある千草の納骨の意味を変えていきました。おわかりかと思いますが、少しずつ私が自分を取り戻していっています。これはわがままを言う、と言う事ではなくて、自分の気持ちを伝える事ができる―つまり自分を取り戻している―事だと思います。最近のヒットは、主人に自分の「納骨はこんなにもいやだった」と当時の気持ちを言えたことです。主人は黙って聞いていましたが、私とって心にたまっていたものがようやく出て行ってくれた気がしました。主人は私がそこまで嫌がっていたとは、その時まで知らなかったようです。

 

 それに幸せと言う感覚にも否定的でした。

 下の子が生まれておっぱいをあげている時、ほっと心がなごむ一瞬があります。ささやかな幸せを感じたりします。

 すると猛烈に不安になるのです。「幸せだと思っちゃいけない。また死神に子どもを取られてしまう」、とおそろしく恐怖心におそわれるのです。

 自分はずっと不幸でいなければ、また何か悪いことが起こる気がしました。

 

 人付き合いも苦手でした。ひとに心配をかけてはいけないと、とにかく笑顔でいました。ここに有名な「悲しい絵本」(マイケル・ローゼン著 谷川俊太郎翻訳)があります。

 『これは悲しんでいる私だ。

  この絵では、幸せそうに見えるかもしれない。

  実は、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。

悲しく見えると、ひとに好かれないのではないかと思って

そうしているのだ。』

この主人公も息子を亡くしているのですが、まさしくこの状態でした。次のページの悲しみにくれる姿が、本当の彼なのですが、私もまさしくそのとおりでした。

 

 自分を否定したり、幸せを感じる事が恐怖になったり、他人の目が気になってずっと笑顔を作ったり、そんな私がいつからどうやって自分や周囲を肯定的に見る事が出来るようになっただろうか、と振り返ると、時間の経過もありますがやはり自助グループの人に出会い語りあえたのが大きいと思います。

 ただ時間だけが過ぎただけなら、今ほど落ち着いて娘の事を話せたか疑問です。同じような痛み・苦しみ・嘆きをもつ人たちと、わかちあってきた時間が、私のガードしていた気持ちを、どんなに開いてくれたでしょう。

 今どき、子どもを亡くした親に出会うことは、日ごろの生活のなかでめったにありません。特にそのなかでも、同じ脳症で子どもを亡くした親に出会うなんて、まず通常の生活をしていたら、ないと思います。

 最初に私が出会った、お子さんが脳症で亡くなった方は「小さないのち」事務局長の立石さんでした。6年前たまたまある会のあつまりで出会ったのですが、それはそれはびっくりし、心強く感じたことを覚えています。子どもが、引き合わせてくれたような、運命という言葉すら感じました。

 

 先に私は娘の死に対して、ものすごく自分を責めた、と言いました。入院中・通夜葬儀で・その後のさまざまな日常で、私は自分にどこか落ち度があったのではないか、という気持ちから逃れることが出来ませんでした。

特に千草の死後特に2年ほどは、棺の中の死に顔や、納棺の際思わずキスしたのですが、冷凍食品のように冷たく凍ってしまった唇が、どんな時も頭から離れませんでした。起きている時間はずっと、ほとんど一分の猶予もなくその情景・感覚が浮かんできて、どこかに落ち度があったはずだと自分を責めてしまうのです。

 これは下の子におっぱいをあげている時、寝かしつけている時、上の子に絵本を読んでいる時、家族とテレビを見ながらくつろいでいる時・・・そんな時間も私はずっと千草の死に顔が頭に貼りつき、冷たくなった唇の感触を思い出しながら、自分を責めていました。その反面、千草の元気な頃の顔や姿、声・・・すべて思い出せなくなりました。幸せだった頃の子どもの記憶を失っていました。

 

 そんな自分が、この気持ちから抜け出せたのも、「小さないのち」のおかげでした。最初良くわからなかった脳症と言うこの病気も、会に関わる事でどういうメカニズムなのかすこしずつわかってきました。

 たしかに、1歳5ヶ月で亡くならなければならなかった娘の死にたいして、理不尽さや、神も仏もあるものか、という思いは強いのですが、脳症という病気が明らかになるにつれ、自分を責める気持ちが薄らいできたのは、聞いていただきたいことです。

 脳症という病気を憎まなければならない。この病気と闘わなければならない。

いつしかそう、考えるようになりました。そうすると、しだいに気持ちが楽になり、元気だった頃の娘の姿を思い出せるようになりました。

 

 さらにここ何年かは、千草が確実に私の中に棲みついていると実感しています。これまで日常のさまざまな場面で、「ねえ千草ちゃん、あなたならこの時どう思う?」と問いかけてきました。そのたびに声にはならない返事をもらったように思っていました。

 四国には弘法大師がひらいた八十八ヶ所をお遍路さんが巡礼する、「八十八ヶ所めぐり」があります。最近では民主党の管さんがまわって有名になりました。     

巡礼の時お遍路さんは『弘法大師と一緒に巡礼をする。お大師さまが守ってくださっている』と言う気持ちを表して、「同行二人」という文字を書いた装束や杖などをお遍路さんは身につけています。

まさに、私は千草と、同行二人で生きているんだな、とここ何年か感じています。これからも私は千草と生きていくつもりです。私が生き続ける限り、千草は私に中で生き続けるからです。

 

今日の題には「未来」と言う言葉をあえてつけました。娘を亡くした当時、未来という表現は、絶望の中にいた自分の中にまったくありませんでした。娘を失った時、自分の未来はすべて失われたと思いました。しかし10年経った今、私は未来を信じています。同行二人、これからも千草と一緒に生きていきます。

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支えられて 〜絆を捜し求めた日々〜        

大阪・ひまわりの会 松城 里香 

 

私は、平成2年に長男「大介」を出産しました。その子が35ヶ月で亡くなってしまいます。12年前のことです。大介は、心臓が悪く、生まれた病院でそれがわかり、すぐに告知されてしまいました。

手術で治るという説明をされたのですが、やはり、あんなに小さな赤ちゃんが、とても大変な手術に耐えて頑張れるのかと考えたとき、いつ、何があるかわからないという無意識の覚悟のようなものがどこかに芽生えたような気がします。

あの頃の私は、とても若くて弱かった。あまりにも世間も知らなければ、何に頼っていいかもわからず、ただ途方にくれていたように思います。

でも、退院してからの私は、もう泣くことはやめました。実際にこの手の中にある小さな赤ちゃん、この子の人生を曇りの無いものにする為に、全力投球する決心を固めました。

一歳になった頃から大介は、二度の手術、検査入院を含め、何度も入院をしています。度重なる入院のたび、彼なりの社会生活というものが出来てきて、お友達も増え、しっかりとここでも生きているんだなと思ったことを覚えています。

2度目の手術のあとは、予後が悪く、何度も生死の境を彷徨いました。結局ICUで一進一退を繰り返した大介が、奇跡的に回復し小児科病棟に戻れたのは、一ヶ月以上後のことでした。

 

3歳の夏、退院を間近に控えたある日、急に体調を崩し「いつ何があってもおかしくない」と告げられます。まだ元気な息子を目の当たりにしながら、信じられない思いの私を取り残し、みるみるうちに点滴の数が増えてきてベッドの周りをずらりと計器が取り囲みました。必死で看病をしながらも、私は自分の心臓が引き裂かれそうで、怖くて、怖くて一人になると大声で泣きました。大介との時間のほかには、感覚がまったく麻痺していたようにも思います。それでも大介は、想像を絶するであろう苦しみにも、全く取り乱す事は無く、最期まで私たちを信頼し、治してもらおうと頑張っていました。そんな健気な大介を見るたびに、傍についていながら、泣いてはいけないと思いながら私は流れる涙を止めることは出来ませんでした。

藁にもすがる思いで、海外での移植を検討してもらいましたが、その後一週間で亡くなってしまいました。何故もっと早くに移植に踏み切ってやれなかったのかと、自分の考えの甘さを悔やみ、今でも大介に済まなかったという思いが残っています。

 

 いよいよという時も、少ししゃべるのもおっくうなのに、何かをしてもらう度に「ありがとう」「ありがとう」と妙にしっかりと一人ひとりの目を見て言ってくれました。それが、暗にお別れを言われているようでとても辛いのです。何度も目をこすり、それから私に「抱っこして」と言ってくれました。抱きあげて好きだったアンパンマンの唄を流してやると、カセットデッキを握り締め、ここでも「ありがとう」とじっと聞き入っていました。その後、みんなに、手を足をとられて、とうとう大介は天国へ駆け上って行ってしまいました。

そのあとすぐに、大介の心臓を解剖させてほしいというお話がありました。可哀想だという家族の反対を押し切り応諾しました。他の人の心臓をもらおうと移植を一度でも考えた私たちが断るわけにはいかないと、その時はかたくなに思っていたのです。

 

葬儀が終わってからは、苦しくて、苦しくて、悲しくて、淋しくて、この世にいない大介と私だけの二人の世界に閉じ籠もってしまいました。ほかの人がどうだとか、何故自分だけとかそういうことは、一切気にならず、ただ、大介を追い求め、探し続けました。

大介は、何処へいってしまったの?何処でどうしているの?頭の中をぐるぐると疑問が駆け巡ります。少しでも「生きる事、死ぬこと」に関係する本があれば手当たり次第に読みました。その頃食べるものにあまり味を感じなくなっていた私にとって、本の中の言葉だけが唯一、味のわかる食べ物になっていたのです。

読んでいくうちに、その作者との出会いを感じ、その人の言葉として、本の言葉が心に響くようになるにつれ、やがて自分をみつめる周りの人の「まなざし」に気付く事が出来たのだと思います。夫は黙って支えてくれ、両親、妹は援助を惜しまず、一緒に泣いてくれました。家族全員が心に傷を負っていたのに、私に手を差し伸べていてくれたのです。

 

あらゆるしがらみから逃れたいという気持ちもあって東京の妹の家に滞在中、妹に四ツ谷の「生と死を考える会」に連れて行かれ、死別体験者の分かち合いに初めて参加しました。

始めは、涙、と嗚咽で、殆ど語れませんでしたが、たまたま、同じグループに15年以上前に子供を亡くした年配のご婦人や、私と同じ頃にご子息を亡くされた男性などがいらっしゃり、今まで自分の苦しみしか知らなかった私が、気がつけば、『この方のお子さんは…』『あ、この方は…』

と驚き、その方々のお話に聞き入っていました。

毎月の定例会、分かちあい等に参加することで、少しずつ引きちぎられるような哀しみはうすれ、大介に会えない寂しさへと変わって行ったような気もします。

 

次の子どものことを考えるのは大介に申し訳ないような気がしていたのですが、ようやく少しずつ前向きに考えられるようになり、平成7年に女の子を無事出産することが出来ました。妊娠中に阪神淡路大震災があり、様々な別れを新聞やTVで見聞きする度に涙が止まらなくなりました。

 

19973月、「大阪・生と死を考える会」発足準備のお手紙を、現会長の谷氏より頂きました。大阪に会が出来る事はとてもありがたく、喜んでお手伝いさせていただく事にしました。

運営委員と会報の編集をすることになり、翌年、遺族の分かちあいの会である「大阪・ひまわりの会」を分科会として立ち上げたときに、世話人代表を務めることになりました。

 

分かちあい、ピアカウンセリング、など、言い方はいろいろあるようですが、私はその「わかちあい」に東京での頃から、もう10年以上関わってきていることになります。

それぞれの方が話される、その語りを私は聞き続けています。一人ひとり、年齢も性別も家族構成も違います。私は、いつも、語っている方の大切な人を想像しながらお話を伺います。それぞれの人が語る悲しみ、うらみ、辛さの影でこの人が想う人はどんな方、どんなお子さんなのだろう…と。

それぞれの人が語られる悲しみ、それは取りも直さず、その対象との絆について語っていることと同義なのです。お母さんの目を通して語られるその子の姿。それは愛につつまれています。たとえ悲しみ、恨み、後悔と共に語られることであっても。

 

悲しみは決してなくならないけれど「何故、死ななければならなかったのか」「何の為に生まれて来たのか」「生きがいとは」等、悲しみに纏(まつ)わる疑問について考える手助けとなってくれる数々の言葉と、分かちあいの場で出会うことができました。

納得できる事も、またその時は納得できない事もあります。納得できない事はそのまま心の中に寝かしておくと、いつの間にかそれが、熟成して形を変えて語りかけてくることがあることも、この10年ほどの間に覚えました。

 

人の人生を生きる事はできないし、誰かに代わってもらうこともできません。だけど隣を見れば自分と同じように悲しみや悩みを背負って歩いている人がいる。そしてその人と、時には並んで歩く事もできるということ。それがすなわち人生であり、支えられているということなのだろうと思います。

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いのちに導かれて〜12年の歳月をおもう〜

SIDS家族の会 田上 惠美子 

 

私たちの次男健が生まれ写真1枚を残してなくなったのは、今から12年前の平成5年2月でした。「お元気なボクちゃんですよ!」出産に立ち会った夫に抱かれた我が子。桜貝のような美しい爪に触れて、私は命を確信しました。ところが翌朝、安心して眠っていた私は、健が原因不明で未明に突然死したことを院長と夫から聞かされました。突然、別の世界へ投げ出されてしまい感情が遮断されたような感覚の記憶が今も残っています。その直後のことは断片的にしか思い出せませんが、院長や看護師の方の言葉・表情・対応は、今もフラッシュバックのように甦ります。

私が産院で動けない間に夫はお葬式を出し、健のために準備していた全ての物を片付けたようです。家に帰ると小さな白い箱が祭壇の上にあります。それが我が子のお骨であることが納得できず、お線香を絶やしてはいけないと言われてもなぜ私がしなければならないのか、ぼんやりしたまま数週間を過ごしました。「明日目が覚めると、きっと悪夢のトンネルから抜け出しているに違いない…」でも毎朝起きると真っ暗なトンネルの中のまま。

一ヶ月検診も自分だけの受診、しかも出血の止まらない自分の体に不安が募ります。飲む子がいない母乳が滴り落ちるのを見、自分の乳房が痛み続けるのを感じながら、少しづつ状況が飲み込めてきました。窓の外の春めいてくる空気にも、怒りを感じ始めました。「なぜ健が亡くなったのに世の中は当たり前のように花が咲き始めるの?」ベランダに乳児衣料が干してあるのを見ては「どうして健は亡くなったのにあの家の赤ちゃんは生きているの?あの子も死ねばいいんだ。」 テレビを見ても紙おむつや赤ちゃんが画面に登場した瞬間スイッチを切ってしまいます。 さらに、病院でのことが頭の中をめぐり始めます。「病院は本当に最善を尽くしてくれたのだろうか。もしかしたら私たちの小さな幸福をねたんで誰かが殺人をしたのではないか?」こんなとんでもない感情や思考がぐるぐる頭の中を巡っては「自分はなんとひどいことを考えるようになってしまったのだろう。最低の人間になってしまった。」と自己嫌悪に陥り、「死んでしまいたい、狂ってしまいたい。」と思いつつ、そうなれない自分が一層情けなく腹立たしいのです。

それと同時に、夫と保育所に行く長男が家を出るとすぐに、「ひょっとしたら二人とも、今、死ぬところではないか?ほんの近くにいたのに次男を救えなかったのだから、夫も長男もあっという間に死んでしまうかもしれない…」居ても立ってもいられない不安が押し寄せるのですが、一人で外出できません。だれかに会って「おめでとう。生まれたんだって?」と言われるのが恐ろしく、また、道で赤ちゃんの姿を見ると息苦しくなり前に進めなくなったり、人とすれ違うのが怖くて横道にそれて別の方向に行ってしまうのです。電話のベルも恐怖の対象となりました。電話を取った時もし知人であれば「赤ちゃんもう生まれた?」と聞かれるのが恐ろしいのです。

いろいろな人が声をかけて下さいましたが、やはり声を詰まらせ涙ぐむ私を前にすると、「何か言わなければ」と皆さん思ってくださるのでしょう、「次の子を産んだら」「いつまでも泣いていたら天国の子がかわいそう」「早く忘れて」「元気を出して」「がんばってね」などと励まして下さるのです。しかし、私にとってこれらの言葉は、確かに一時存在していた健の命を否定したり、必死になって何とか立ち上がろうともがいている今の精一杯の努力を不十分なものと決め付けてしまう心無い言葉として胸に突き刺さるのです。「やはり泣いてはいけない。早く忘れなければ。でも、これ以上どうやって頑張ったらいいの?…。」無力感や絶望感や孤独感で打ちひしがれてしまうのです。

 

このような私にとって第一番目の大きな転機となりその後の支えとなったのが《自助グループ》です。「健の死を忘れる方法」「悲しみから逃れる方法」をひたすら考えていた時、赤ちゃんを亡くした親のフォーラムが開かれたとテレビニュースが報じたのです。夫が会を探し出し、私たちは藁をも掴む思いで初めてのミーティングに参加しました。十数家族が部屋に集まり、自分の体験や気持ちを一人一人が話していき、他の人はひたすらじっと聞くのです。私も声を詰まらせ泣きながら話しをし、他の人の話を聞いていくうちに、これまでの「話してはいけない。誰にもわかってもらえない」と思っていた気持ちが「話していいんだ。悲しさを共感し受け入れてくれる人々が居るんだ。」という気持ちへと変わっていくのでした。そして帰路、私たちは「健の死を忘れず、彼の命の意味を考える方法」を考え始め、ビフレンダーとして活動を始めることにしたのです。

 

第2番目の転機であり支えは《ガラス》です。外出も人と話をする事もほとんどできないでいたある日、電話が鳴りました。恐る恐る出てみると、老後の趣味にでもと以前通っていたガラス教室での知り合いのKさんからの電話。案の定「もう生まれた?」。涙が出るばかりで声が出せずにいるこちらの言葉を無言でKさんは待っていてくれました。やっとのことで、元気で生まれた後突然亡くなった事を話すと、彼女は「私も亡くしてるねん」と話してくれました。数日後、再びKさんから電話があり「外に出ないかん。ガラス教室にこの日に予約入れてお金も払ったよ。事情は話しておいたし泣いてもかまへんから。絶対来て!」とのこと。迷った挙句、重い腰を上げてやっとの思いで行き、ガラスを融かし玉を作っていると、いのちをもう一度生み直しているような不思議な気持ちになりました。熱いガラスは柔らかく刻々と形を変化させ、冷めれば何千年でも持つほど強く硬くなります。でも一瞬で壊れてしまう儚さもあります。それはまるで「子供の生命」のようでした。それ以降ガラス作品を作るという行為を通して、私は少しづつ健のことを心の中で整理して行ったのかもしれません。健はガラスに生まれ変わってくれたのかもしれない、そう思うこともあります。

 

第3番目の転機であり支えともなったものは《患者さん》です。弱い命しか次男に与えてやれなかっただめな母親、子供が亡くなることも気付かず眠っていたおろかな人間…。自信喪失と自己嫌悪と罪悪感で心が一杯になり、それまでプロとして自負心を持ってやって来た言語聴覚士の仕事にも自信が無くなっていました。産休明けの出勤の日も過ぎ、事情を話し職場復帰を先送りにしてもらいましたが、それにも限度があります。「1週間とにかく行ってみよう。それでどうしてもだめなら退職しよう。」そう意を決して出勤しました。久し振りの患者さんに対する言語訓練、数ヶ月ぶりにお会いする顔馴染みの患者さんは以前と同じように車椅子で言語室に入ってこられました。ひたすら作り笑顔で挨拶しようとする私に向かって、失語症で言葉がほとんど話せないその患者さんは自由の利く左手で私の手をそっと握り、無言で涙を流してくださったのです。歯を食いしばって笑おうとしていた私はこの方の涙で救われ、思わず私も無言でただ涙を流しました。障害を持って生きることになった方々の支えになれたらと思って仕事をしていたつもりの私が支えられていたのです。突然のご病気によって一度は絶望のふちに立ちながらも前向きに意欲的に生きておられる患者さん達。皆さんの存在の力強さが私の大きな支えとなり、仕事を続ける勇気を頂きました。

 

 その後、健の死から12年。「妊娠したいがするのが怖い」という相対する気持ちにどうしたよいのか分からない時期がありました。出産を決心したのに不妊となり悩んだこともありました。40歳を目前にして妊娠が分かったとき高齢出産による障害発生の確率に「また死んでしまう」と出生前診断を受けたものの、もし障害があると分かった時どうするかとの問いに、何も考えられなくなってしまった事もありました。阪神大震災被災による早産での三男出産時「生むとまた死ぬから生みたくない!」と分娩台上でわめいた事もありました。その後の三男の小さな手術にオロオロした事もありました。さまざまなことが起こり、そして今、今日一日を地上に家族4人と天国に一人とで過ごせることの幸せを実感します。明日の命が実に不確実なものであるとわかったときから「生」が光り始めました。

 

「どうしたら乗り越えられますか?いつになったら立ち直れますか?」と聞かれることがありますが、「『乗り越える』『立ち直る』とはどういうことだろう?」といつも思います。受け入れがたい悲しい現実を少しづつ受け入れること、その記憶と共に生きること、とても難しい事ですが「諦める」ということ…。現在私が立ち直っているかどうかよくわかりませんが、今言えることは、「健を亡くした人生が私の人生なんだなあ」と少しずつ納得できるようになったことです。

 

「未来そのもの」であったはずの子供がふっと消えてしまった時、死と対話しそれを受容していく中で、始めて「今の生」を実感しました。健の短い命は私たち家族にさまざまなことを考えさせ、教え続けてくれています。天国で健と再会したときには胸を張って「ありがとう。母さん頑張ったよ。」と言えるよう、今を生きたいと思います。