「小さないのち」会報--会報 No.56
ホーム
お知らせ 会の紹介 こころのケア 書籍販売 リンク一覧 会報
最新号
一覧へ
Pfizer
2005年06月19日
会報 No.56
こころの扉(会報41号)              平成15年 月

こころの扉(会報56号)               

平成175

発行 小さないのち

グリーフケア研究会での講演から

4月10日にグリーフケア研究会公開講座で、当会会員の金澤比呂美さんに

シンポジストとして出演していただきました。 感動的で造詣の深いお話しを

聴かせてただくことができましたので、会報でもお伝えしたいと思います。

 

                   金澤 比呂美

 


私たちの一人娘の瞳子(とうこ)はH2・3・22に生まれ、H10・2・8に亡くなりました。7歳と10ヶ月、脳腫瘍でした。

 3,620グラムと大きく生まれ、そのまま身長・体重ともに平均的な成長曲線を上回りながら育ちました。大きな身体なのに11ヶ月で歩くようになり、音楽を聴けばよく身体を動かし、何にでも興味が旺盛で、1歳で初めて保育園に行ったときも私がいない数時間の間、室内を探検してすごせたそうです。風邪をこじらすこともなく、病院にはあまり縁がない子どもでした。たいへん活発で、保育園で指定されたぞうりタイプの上履きを男の子以上に履きつぶしていく始末。ボールで遊んだり、トランポリンや縄跳びが大好きでした。

 

発病したのはH8年の4月、1年生になってすぐでした。すぐ入院し、シャント造設手術をしましたが、腫瘍自体は手術で取れない部分にあり根治手術はできません。その部分にできる腫瘍に特効的に効く放射線治療が選ばれました。「それが効けば腫瘍は良性で、再発することは少なく予後は良好。見極めないといけないがその可能性は高い。」と説明を受けました。ヒトが浴びることができる最大量の放射線を、6歳の小さい体で受けました。もともとよく食べるほうで、3月生まれなのに同級生たちには全く引けを取らない体格のよさ。そんな瞳子が全く食べようとしない。体重が4kgも減りましたが、なんとか治療を乗り越えました。

 

自分の病気のことがよく理解できなくても子どもは素直に向き合います。突然突きつけられた入院生活やつらい治療にも、1回目の入院のときは何一ついやがらず受け入れていました。放射線の照射も「ちりょう」と呼び、何日も何日も一人でリニアック室に入り身体を固定してもらい、部屋に一人の残されて照射を受けても、疑問を口にしませんでした。技師さんを困らせたと聞いたこともありません。週に二回ある採血もこちらの心配をよそに腕を差し出していました。全く自然に生きていく意欲を持ち、前向きな態度を持っていました。

 

終了の時点で「腫瘍のあった部分には小さな石灰化が残っていますが、注意深く経過を見ましょう。」と言われて、晴れやかな気分にはなれませんでしたが、2ヶ月半の入院を終え7月頭に退院しました。夏休みがおわってから学校に戻ろうと考えていましたが、帰った翌日から学校に行きたいと言い出し、早々に登校を開始しました。その後は元気に実に生き生きと。副作用でほとんど髪が抜け落ちてしまった頭をバンダナで覆って、そんなことは気にもせず、喜びを実感しながら学校に通いました。1学期の終わりの懇談のとき、先生に「瞳子ちゃんは学ぶことに大変大きな意欲を示して、周りのみんなを驚かせ、ひっぱってくれました。」と評価されました。運動会もマラソン大会もみんなと同じように頑張りました。展覧会の作品や音楽発表会も真剣に取り組みました。病気を体験してから、わがままなところが目立たなくなり、友達を大切にし、一歩引いてみんなのことを考えられるようになっていました。

 

1年生の終わりまで普通に生活したように思えましたが、3月末に再発がわかりました。再発したということは良性ではなかったということです。そして即、再入院。検査をしている期間に、ふくらはぎから下と排尿排便の機能が麻痺してしまい、瞳子は自由に動き回ることができなくなり、瞳子らしさを失いました。2回目の入院は痛いことを全く受け入れてくれませんでした。3クールの化学療法で、とりあえず悪い状態からは回復したものの、それ以上の治療はできず、そのあとはなすすべもなく終末期に向かうだけです。化学療法の前に、あとは1年の命と言われました。

 

頭の痛さ、治療中の気分の悪さ、身体のだるさ、当の本人しか解らない苦痛や不安。私たちの想像のできないものでしょう。そんな思いをさせているのは親としてとても辛く、そうさせているのは私たちの責任のようにも思います。代われるものなら代わってやりたい気持ちは、言葉で表現できる限度を越えました。崩れそうな親の思いは、瞳子の明るさ・無邪気さ・けなげさ・いじらしさで支えられていました。何とかして少しでも苦しさを減らしたい、本来の明るく元気な瞳子のままでいられる時間を長くしたい、と思っていました。私たちは瞳子の最期のときは、呼吸をするための管をいれて人工呼吸器をつけるような処置は断りました。先生からの確認がある前から、断るつもりでした。そんな風にいのちを長引かせるのは、瞳子にとって辛いことでしかないと信じていました。逝ってしまうのが早くなってもそれが瞳子のためと思って、決意していました。

チューブ類はほとんど入れず、心臓マッサージも長くはしてもらわなかったのは、いつもの瞳子の姿で、きれいなままの瞳子でいてほしいと願う気持ちからでした。これ以上瞳子につらい思いをさせるのは酷なことに思いました。今を乗り越えたらまた元気でいられる、楽しい未来が待っているならがんばれとも言えたかも知れませんが、徐々に悪くなっていく瞳子を見ているとそうは思えませんでした。瞳子は必死に戦ってきました。無理して頑張って生きている・羽ばたいている瞳子をうまく静かに着地させてやることが目標でした。親が生きることを期待すれば子供はこたえようとするものです。積極的に延命をしない道を選ぶのは、自分たちが瞳子にすがる思いとの戦いでした。

3クールの治療で夏がきて、秋の間は少し調子がよく、冬に入るとともにだんだんと辛い日々になりました。終末期には大きな波もなく、瞳子の経過は穏やかでした。意識が薄らいだままクリスマス・お正月を過ごし、最後に声を出したのが、1月15日でした。そのまま眠り続け、2月8日の夜が更けたころ、静かに、遠く手の届かないところへいきました。あれでよかったとは今でも思えません。いつまでも思えないでしょう。どの道を選んでもこの思いは親の心から抜けないと思います。

 

 瞳子が亡くなって帰ってきた自宅は、すぐに「真っ暗」であることがわかりました。明るく笑う声や、バタバタと走る足音がない家の中は、まったく張りがなく、空気が淀んで感じます。子供の存在は家族の希望であり、陽の光であるのを実感しました。子供の日々の成長が家族に将来の明るさを与えてくれていました。 

子供を失った親は、罪悪感と怒りをより大きく感じるといわれています。病気がわかったときからずっと罪悪感ばかりでした。私が何か怠ったから病気になったのか?何かしたからか?早く病気に気づいていれば何かの治療があったのか?私は瞳子によくしてやっていたか?よい母親だったか?つらいときに余計につらさを与えてなかったか?すべてについて自分を責めて、考えました。悲しいと思う気持ちさえ、「悲しいのは自分の感情で、瞳子のことを思っているわけではない」と、そんな自分を責めました。

 

子供が死んでしまったのに自分が生きていることも、罪悪感に繋がります。子供はもう楽しいことも、うれしいこともなく、おいしいものも食べられないのに、私は生きているのです。笑うことも楽しいと思うことも、申し訳ないと思いました。頭が痛くても、瞳子はもっと痛かったはずだと思うと、痛み止めを飲めませんでした。そんな風に自分の体が苦痛にさらされると、自分が許されていく、瞳子に近づけるような気がしてうれしかったし、瞳子のことを思って体がボロボロになればいいのにと願いました。それが瞳子への私の思いを証明する方法かもしれないと思っていました。

 

それまで母親であったのに、守るべき子供を守りきれなかった・守るべき対象がいなくなったのは母親として失格になった気分で、母親としての役割を失いました。将来のイメージがガラガラと崩れてしまい、生きる意味がわからなくなりました。子供を亡くすと、自分を否定し、罪悪感に苦しみ、存在に自信がなくなり、喪失したものが多すぎて生きていく意味を見失った状態になると思います。

 

瞳子が逝ってしまってから毎年同じ様に1年を繰り返しています。秋が深まったころから落ち込み、冬の間はうつ状態で、命日と誕生日が過ぎてやっと一息つくが、また4月5月は発病・再発・苦しい治療が行われた辛い時期であり、まだ気分は晴れてはくれません。カレンダーを見ては「あのときのあれは…」とか、「今頃はこんなだった」と振り返り、何かあった日ごとに記念日反応の症状になります。気持ちが揺れ動き、突然泣きそうになったり、何も考えられなくなったり、コントロールが効きません。カレンダーは意識するのに、季節は感じませんでした。心が枯れています。クリスマス、お正月、ひな祭り、桜の季節、入学、ゴールデンウィークなど、うつの時期の行事はより落ち込む原因で、世間の幸せそうな、楽しそうな雰囲気にまったくついていけず、ひがんだりもしました。運動会や発表会、マラソン大会など、学校行事も同様でした。当然、季節ごとの行事は我が家から姿を消し、平穏に日々を生きている、それだけが私たちの生き方になっていました。

 

周りの人に素直に自分の気持ちが話せなかった私に、「今」があるのは、子供を亡くした親の会での「わかちあい」に出会ったからです。わかちあいに参加したのは、瞳子が亡くなって5年がたっていましたが、初めて自分の思いを話し、同じ立場のお母さんたちの気持ちを聞きました。改めて瞳子のことに向き合い、たくさん泣きました。それまでは自分の思いさえも否定し、押さえつけていました。自分の言葉で話すと思いを確認できるし、ほかのお母さんの話を聞くと、自分の気持ちを整理できるような気がします。何よりも素直になれて、押さえつけたり閉じこもったりしなくてもよいと思いました。自分に起こったことや、自分の感じていることに向かい合い、許し、認められるようになると、悲しみと付き合っていく勇気がもてるようになりました。悲しみは消えることはありません。今まで生きて来た道に一旦線を引いてこれからを生きることもできません。「悲しみとともに生きるのが自分の人生なんだ」、と思えるようになったのが今の私です。

 

 以前の私は、瞳子の写真を見ることができませんでした。笑っている顔をみると、つらい闘病を思い出しそのギャップを感じてしまうからでした。でもいまは、「ああ、このときはこんなにいい笑顔で、楽しかったんだなあ」と見つめることができます。以前は瞳子のことを話すのはつらくてできなかったのに、今はこうして皆さんの前で話すことができるようになりました。今は、もし辛い思いでいるお母さんがおられたら、「変わっていけるから大丈夫、変わってもいいんですよ。」と声をかけたいと思っています。

 


わかちあいのつどい

つどいは、「お話をさえぎることと、反論することは控えましょう」というルールを設けて、あとは何を語ってもだいじょうぶな場です。もちろん何も話せなくてもだいじょうぶで、泣いていても恥ずかしくない、安心して過ごせる“密室”です。

参加されている方々のご了承を得て、お話しの一部をご紹介します。いろんな事情で参加することが難しいかたにも「あ、いっしょだ…」と感じていただくことができると幸いです。                

ご協力いただきました皆さま、ありがとうございます。

 

大阪のつどいから        200558

     先日は、金澤さんのお話し(1ページ〜)を聴いて、いすから落ちそうな驚きでした。体験したことは違っても、気持ちの一つひとつがいっしょだったからです。いっしょの気持ちの人ががんばって生きてきたことを知ることができ、ありがたかったです。 

 

     最近夢を見ました。子どもが小学生になっていて、参観日に行っていました。相変わらず電車の絵を書いているんです。子どもとは、絵筆を洗いに行くところをすれ違っただけです。担任の先生に「病気したけど元気に育ってくれました」など話しているところで目が覚めてしまいました。もっと見ていたかった。

 

     毎年こどもの日には、柱に背の高さをつけていました。今年は子どもがいないからどうしようと思っていたら、夫は同じ歳のよその子の身長を聞いて、130センチの高さにしるしをつけました。

 

     先日、子どもが入院していた病院の番組がありました。一緒に入院していた子が出ていたので、元気でいてよかったね!と思うと同時に、うらやましい思いが込み上げました。息子にはいつも会いたいと思っていますが、無性に会いたくなって、動いているあの子に会いたくてたまらなくなりました。

 

     心がぐらっとすることがありました。(私は留守でしたが)亡くなった娘と同い年の女の子とお母さんが訪ねて来ました。その子が不登校になり、霊能者に原因を見てもらったところ「死んだ子はいない?」と聞かれて、娘のことを思い出したそうです。娘がその子の後ろに立って「死んだらあかんよ」と言っている姿が見えたとのこと。お礼のお参りに来てくれたのですが、私にはぜんぜん娘の姿が見えないだけに複雑な思いでした。

 

◎先日、みてもらっていた小児科の先生と会ってお話しする機会がありました。息子が亡くなったことで、先生もずっと傷ついていたことを知りました。

 

(坂下)ここで、参加するほかの方々にも尋ねてみました。子どもが亡くなって親が苦しいのは当然ですが、医療者も「つらい」「悔しい」思っていることが自分にとって必要かどうか?―――「必要」が一致した感情でした。そういう医師や看護師と出会えていたことが「うらやましい」という声もありました。

 

◎ご近所で、亡くなる前にかかっていた小児科の話題がでます。その先生がどんな気持ちで暮らしているのか気になっています。医師としてステップアップしていてほしいです。もしも私の子どもが亡くなったことに平気だだったら、とてもつらいです。

 

     長い闘病と入院ののちに子どもは亡くなりました。退院したあと、いつも明るく声をかけてくれる看護師さんが、私の知らないところでは、私の子の姿が消えた寂しさに涙していたことを人づてに聞き、救われる思いがしました。

 

     最近アルバイトに行っています。仕事中に娘と同じくらいの子を見かけると、「この子は元気でいいなー」で終わるのですが、買い物に出かけたときは、同じような子を見かけると目で追ってしまい、その子から目が離せなくなり、とうとう店から出ていくところまで見送っていました。自分はそこへは仏壇に供える花を買いに来ていることが悲しくて、ひとり車のなかで泣きました。

 

     次に産まれた子どもが亡くなったお兄ちゃんの年齢に近づいたので、開けられなかったタンスの引き出しを開けて、お兄ちゃんの服を手に取ってみました…。柱の印は、下の子が大きくならなければ困りますが、越えられるのもつらいものです。

 

     つどいは皆勤で来ていたのに、前回はお休みしました。出かけるつもりで服まで着替えていたのに。インフルエンザ大流行の季節で、もし私が出先で罹って上の子に移したら、、と考えると、怖くなり座り込んでしまったのです。亡くなって6年経つと、動揺の対処のしかたは知っていたはずなのに、自分でも驚きました。当初はぴりぴりしていて、常にバリアを張っていたのが、はずしていたところに「来た」ようです。何年経っても「来る」んだと思いました。

 

     もうすぐ七回忌を迎えるので、いまとてもつらいのですが、この会があってよかったなとまた改めて感じます。何年という時間ではなく、「こういうことなんだな」と思います。自分のことを遺族と認めたくなくても、法事はしなければなりません。親戚は法事は知っているけれど、誕生日のほうは知らないことが悲しいです。

 

     JRの事故でご遺族に強引なインタビューをしている光景や、直接関係しない人が強く批判や中傷をする光景がつらいです。口で言うだけでなく、心でわかってほしいです。

 

     姉に子どもが産まれました。産まれるまでは、「女の子だったらどうしよう…」と思っていたのですが、実際はかわいくて、もう一度赤ちゃんを抱っこできてうれしいです。姉は、女の子を産んだことを悩んでいたようですが、私には本当にうれしいことでした。

                           (文責 坂下裕子)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

東京のつどいから         2005429

     年子なので2つまとめて机を買いました。その机の横にお姉ちゃんのお仏壇を置くことになったのが寂しい…。入学すると、自分から亡くなったお姉ちゃんのことを友達に言っていました。お姉ちゃんがいて自分たちがいるという感覚を身につけていました。

 

     亡くなった病院の先生にやっと年賀状が出せるようになりました。10年たっても覚えてくれていて、返事をくれました。ぐっときて涙が出ました。忘れていないことがうれしくて、忘れないでいてほしいと思いました。

 

     元気だったら中学生です。ダイレクトメールで子どもの名前があるものが来るだけでうれしいです。いやだと思う人もいるそうですが、私の場合はうれしいです。

 

     上の子二人が家を出てしまって、夫婦二人の寂しい生活になりました。いままでは上の子たちに気を使って話せなかった亡くなった子の会話ができるようになりました。

 

     上の子が卒園しました。下の子が元気でいたら鞄や服を使うのだけど、友だちに「ちょうだい」と言われました。本当はあげたくなかったけれど、お世話になっていたので、「いいよ」と約束をしました。いざあげるとなると寂しくて、写真にとってからあげました。

 

     生後6ヶ月くらいから入っていたサークルがなくなるので、来ないかと連絡があり、思い切って行ってみました。子どもたちがすごく大きくなっていることにびっくりしました。3歳の姿は想像できなくて、15ヶ月くらいの子を見てるほうがいとおしいことがわかりました。

 

     教育で、生老病死というのが抜けています。私たちもこういうことに見舞われたからわかったことがあります。子どもの頃から生と死についての学習し、生きていることから死はつながっているというようなことを考えなければと思います。

 

     頑張ると「けなげ」と褒められますが、出したい本音は出せません。言葉だけを受け取って「すばらしい」と世間では評価します。言わされた言葉がたくさんあっただろうし、言わざるを得ない状況があったはず。本当の言葉が受け止められるようになりたいです。

 

     一番下の子はお兄ちゃんのことはわからないので、写真を見て誰だろうと、首をかしげています。亡くなっているお兄ちゃんをどう教えていくか、これから考えなければ。

 

     昨年の家庭訪問のとき、妹を亡くしていることを話そうとしたら、「そういうこと、聞いて来ていますから」と。投げ返され、突き返されたようでした。先生が忙しいのはわかるけど、当事者はほんとうに悲しいから、心をもって接してほしい。今年の家庭訪問では何も話しませんでした。悲しい態度とられたらまた傷つくので。

 

     間違えて行ってしまったような気がして、間違えてるんだから戻ってきてくれると信じ、待っています。つわりではないかと思う症状が続きました。戻って来てくれたんだと思い、光が舞い降りてきた気がしました。でも数日前、体が軽くなって、戻ってきていないことがわかりました。目の前が薄暗くまた立ち込めてしまいました。

 

     ふと庭を見たら、いつの間にか暖かくなっていて、子どもに見せたいと思って植えていた花が咲いていました。秋冬は庭にも出ず、何もしていないのに、若葉が出て色がついている庭に気がつきました。庭のなかをぱたぱた走って、ぴゅっと出てくる映像が浮かびました。子どものことを明確に思い出した瞬間、いてくれている感じ方ができました。

 

     誕生日がくるたび手作りのケーキを作っていました。元気でいれば3歳になる誕生日ですが、自分でケーキを作る気にはなれず、でも何もしないのもいけないので、注文することにしました。電話をいったん切ってから、「いつまでも忘れないよ」というプレートはどうでしょう?と言ってくれました。考えてくれたことがうれしかったです。いつまでも2歳のままだけど、3本ろうそくを立てて、お友達がろうそくを消してくれました。

 

◎事件で子どもが亡くなると、きょうだいの心のケアがあるけれど、病死でも、登校してきたら、養護教諭などがケアを考えてくれたらいいと思います。

 

     家庭訪問で、先生を仏壇のある部屋に通しました。二番目を亡くしたことを話したら、実は私も亡くしているとのこと。びっくりしたけれど、会ったときから不思議と話しやすさを感じていたのです。それ以上の会話はなかったですが、縁は不思議なものです。

 

     二年半くらいたつと、聞こえなかった声が周りから聞こえてきます。なんでもっと整った病院に運ばれなかったんだろうね、と言われましたが、ここの先生は小さないのちの会報を持っていて、ケアはよかったです。同じことが起こっても、どの先生に出会うかで道は分かれます。周りからどういわれても、亡くなった子がそういういい先生に出会えるようにしてくれたんだと私は思っています。

 

◎自分を責め、森島先生にいろいろ尋ねました。心に寄り添うように、とても丁寧に答えていただきました。お子さんの場合はたぶん〜だから〜だったんじゃないでしょうかと。先生は病院の中だけにいる人でなく、会にもよく来てくれるから、遺族のことがわかるのではないでしょうか。わかろうと思う気持ちがある人とない人の違いだと感じます。

 

     結果が結果であったために、医療者の言動がいつまでも心に残ります。結果がよければ忘れてただろうし、意識回復して目を覚ましてたら、あのときは大変だったねで終わるのだけれど、いまとしては傷として残っているのです。

 

     ずっと主治医であったのにも関わらず、名前も呼んでもらえませんでした。一言子どもに言葉をかけてほしかった。解剖の結果を知りたくて、やっと1年半たってこちらから行ったけれど、そのときもありきたりの説明だけでした。本来いい先生だったのに。期待してしまいましたが、何を言ってもだめなんだと、最近みきりをつけました。

 

     私の場合は医療に対しては不満はないです。亡くなったばかりの子に、なぜか床に座って、土下座のようなかたちで「4年間ありがとうございました」とお礼を言っていました。道を歩いても、無意識に涙が出ていました。(父)

                          文責 坂下裕子

 

 

 

 

書評:PLUTO(プルートウ)・小学館 : 浦沢直樹×手塚治虫

                                                     松城 里香

 

 

今回は、予定を変更して、【PLUTO】を、ご紹介しようと思います。

きっかけは新聞のコミックの書評欄です。あらゆる選者が高得点で推していた

その作品は「鉄腕アトム/地上最大のロボット」を、サブキャラクターゲジヒト

を主人公にして、新しく料理し直した作品だということでした。

 

様々な職業、性別、年齢差のある選者が一様に最高得点をつけたというその作

品に興味を引かれた私は、(個人的に、あの鉄腕アトムに思い入れもあり)早速

その日のうちに、【PLUTO】001と002を購入しました。

 

    そして、うれしいことに、このチョイスは私にとっても大当たりでした。

『それならば、是非、旬のうちに皆さんにご紹介したい!』

と思いついた訳なのです。

 

アトム、ゲジヒトを中心としたロボット達のこの苦悩は、何なのでしょう!

 この物語の中では、ロボットが、人間以上に人間らしい。この作品の基調に流

れるものは、「いのち」のこと、そして、「悼み」です。漫画であるからこそ、これほ

どストレートに「痛み/悼み」にスポットを与える事ができたのかもしれません。

もしかして現代人が失ってしまったかもしれない、人がひとであることの基本

のようなものが描かれています。

 

荒唐無稽な近未来の物語としてとらえるのもいいし、SF映画のような気分

で読むのもいいでしょう。楽しみながら、涙して、そして、いつか「いのち」

のことを考えている。改めて「家族」について考えるきっかけにもなるのでは。

という気もしてきます。 

いのちとは? 生きていくとは? 死んでしまうって? 

いつも何処かで考えている私たちにピッタリの物語かもしれません…。

まだまだ連載中のこの物語、どのように展開して行くのか、これからも目が離

せません。